【検証】なぜ、名門だった二代目宅見組は神戸山口組へと参画したのか?

神戸市中央区二宮町にあった神戸山口組事務所
六代目山口組発足時、述べるまでもなく、中核組織となったのが、当代と若頭を同時に輩出した弘道会である。だが、その他に二代目宅見組と極心連合会もまた中枢に近い組織として、六代目体制の屋台骨を支えることになったも周知の通りである。それは五代目体制時代の「山健組にあらずんば、山口組にあらず」と言われた山健組色を、完全に払拭させるものであった。
それを苦々しく感じていたのは、五代目体制時代に最大勢力であった山健組の四代目を継承した、井上邦雄組長だったのではないか。それが後に六代目山口組の分裂問題へと繋がることになるのだが、ではなぜ、六代目山口組では弘道会と歩調を合わせ、常にNo.3のポジションにあった二代目宅見組・入江禎組長は神戸山口組へと参画したのだろうか。
神戸山口組の結成当初、業界関係者の間で最も話題になったのは入江組長の離脱であった。入江組長は六代目体制において、それだけ重宝されてきた人物だったからだ。その大物がなぜ六代目山口組から割って出たのかと誰もが訝しんだ。ただ一方で、そうした入江組長の動向に「思うところがあったのではないか」と、一部の関係者はさほど驚きを見せていなかったのも事実である。
その真相とは一体、どこにあったのか。大阪随一の繁華街ミナミを拠点に盤石な地盤を築いてきた宅見組が、神戸山口組参画後に衰退の一途を辿り、指定暴力団に(単体で)再指定されることなく一本の道(独立組織)を選ぶことになるとは、当時は誰も想像することが出来なかっただろう。
分裂当初、業界関係者の間ですぐにこういった噂が流れた。それはーーーーー