脚光を浴びたはずの織田絆誠会長は本当に「不運の将」だったのか?―山口組への復帰の芽をも摘んだ“裏目裏目の判断”

絆會の織田絆誠会長
仮に、絆會の織田絆誠会長が神戸山口組から離脱した際、山口組の名称を名乗るようなことをしなかったらどうなっていただろうか。同じように神戸山口組系四代目山健組から離脱し、その後、六代目山口組へと復帰を果たした二代目兼一会のように、六代目山口組系へと戻ることができただろうか。
「静かにしとけばよかったのだ」
某組長が織田会長の動向を見て、ある関係者にそう漏らしたと言われている。 織田会長は、六代目山口組から神戸山口組が割って出た際、同組織の幹部として活発な動きをみせた。それだけではない。神戸山口組から離脱すると第三の山口組として「任俠団体山口組」(のちの絆會)を名乗ってしまうのだ。それが織田会長の山口組復帰の道を断たせたのかもしれない。それは織田会長のヤクザ人生にも影響をもたらすことになったのではないだろうか。
たらればを論じるのは、いつの世も夢想だろう。しかし神戸山口組から離脱し、織田会長が独立組織として山口組の名称を使わずに一本として組織を運営していれば、現在とはまた違ったヤクザ人生を送っていたのではないだろうか。それだけ注目を集めた人物だった。
織田会長の名前は分裂で世間に広がったと思われているかもしれない。しかし、分裂前から関西のヤクザ業界の中では、織田会長の名前は響き渡っていたと言われている。
四代目山健組傘下組織のトップとして、大阪府堺市にある大阪刑務所に務めた時、大勢の山健組関係者が織田会長の噂話に花を咲かせていた。 人気もあったし、率いる勢力もあった。そして武勇伝もあった。 織田会長ならば、山健組の他系列で何かしらの理由で処分されたとしても、率いる邦尽会で拾うことすらできるのではないかと言われていたほどだ。
こんな話があったと言われている。 当時、四代目山健組の最高幹部を、山健組の他組織の組員らが共謀してターゲットにしようとしたのではないかと言われる事件があった。 そうした動きを聞きつけた大阪府警が、組員らのアジトを襲撃。組員らはその場で逮捕されることになった。