工藤會、そして山口組……巨大ヤクザ組織を去った“敗軍の将”たちの哀しき末路とは?

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工藤會・中興の祖と言えば、故・三代目溝下秀男会長である。
溝下会長の死後、工藤會内部では「田中派」と呼ばれる野村悟元総裁による、反対派閥への粛清が始まったとされる。 その光景は、長年内に秘めていた恩讐を溝下会長の死に乗じて実行に移した——外部からはそう映ったのではないだろうか。
それを象徴していたのが、溝下会長の葬儀を終えた直後の野村元総裁の行動だ。野村元総裁は田中組の創設者である田中新太郎初代組長の墓前に、田中組出身の幹部らを率いて参拝したのである。 そこから、いわゆる溝下派とされる幹部らが射殺される事件が相次ぐこととなった。工藤會内の人事においても、主要ポストは田中組出身者が独占していった。
そして工藤會組員らは、溝下会長の親族との交流を固く禁じられたのである。
ここから工藤會は、日本で唯一の「特定危険指定暴力団」に指定されるほど暴走を重ねていくことになる。しかし現在、その頂点に君臨していた野村元総裁も、幹部らによる説得の末に渡世から引退。皮肉にも今度は、工藤會組員に対して「野村元総裁の親族との交流」が禁じられることとなった。 溝下会長の死後に起きた親族との絶縁劇と全く同じ構図が、野村元総裁の周囲でも繰り返されたのである。
工藤會に見る「歴史の皮肉」
もともと工藤會には、内部分裂によって結成された草野一家との抗争の末に、統合を果たした歴史がある。その恩讐を乗り越えて工藤會の統合に尽力し、結実した人物こそが、中興の祖・三代目溝下秀男会長だった。 溝下派とは、溝下会長が草野一家出身であったことから草野一家系を指す。溝下会長自らも草野一家の傘下で極政会(現・極政組)を率いていた。一方の田中派とは工藤組の有力傘下団体であり、野村元総裁はその田中組の傘下組織から渡世入りを果たしている。
そして当時、田中組の田中新太郎初代組長を射殺したのは、溝下会長が率いていた極政会の組員だった。 工藤組と草野一家の統合を目指す溝下会長が、この血塗られた因縁をどう収めていくのか——関係者は固唾をのんで見守っていた。
のちに田中組三代目組長となる野村元総裁だが、田中初代組長が射殺された当時は、まだ傘下の若手組員に過ぎなかった。つまり、射殺された田中初代組長と野村元総裁の間に、直接的な盃による「親子(親分・子分)」関係は存在しなかったのだ。
それゆえ「直接の親を殺されたわけではない」という理屈が成り立つこととなり、工藤組と草野一家は統合へと舵を切ることができた。しかしそれも、溝下秀男という男の強烈なカリスマ性があって初めて成し得たことだったと言えるだろう。
溝下会長の生前、野村元総裁は若頭として誠心誠意支えているように見えた。だが、野村元総裁の心の奥底に潜んでいた感情は、決してそれだけではなかったのかもしれない。
よく言われるように、ヤクザ社会ではカタギになればどんな大親分であっても「ただの人」になる。 ある意味では薄情な世界かもしれない。しかし、だからこそ太く短く生きるのがヤクザの宿命なのだろう。
神戸山口組などに参画した組長たちの中には、引退後、消息も分からぬまま静かに社会に潜んで暮らしている者たちがいる。
それもまた、敗軍の将の宿命なのかもしれない。